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東北被災地(主に岩手県)訪問記

3/25〜28にかけて、
東北被災地(主に岩手県)を訪問してきました。
すでに1年が経過していますから、
ワシはどちらかというと、
被災の状況を知るというよりも復興に取り組む姿に触れ、
そのための支援ができないかと考えていました。
‥‥それは甘すぎました。

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3/25(Sun)
6:30 自宅を出発
7:00 地下鉄「藤が丘」駅発 中部国際空港 直行バス
9:00 中部国際空港から仙台行きのANAに搭乗
10:00 仙台空港に到着。
元上司、吉田芳弘氏がわざわざ迎えてくれた。
「めったに会えないから」と。
本当にありがたい。


仙台空港のフロアは、
youtubeで見たあの光景がウソだったんじゃないかと
勘違いしてしまうほどキレイに復活しています。
‥‥が、1分も走れば
殺伐とした更地区域があちこちに見られるし、
瓦礫の山も点在しています。


宮城県の沿岸部を北上しました。
仙台市、多賀城市、塩竈市、東松島市、石巻市、気仙沼市、
言葉を失います。
復興‥‥、まだ全然、して、な、い。


物見遊山の見物人候で
撮った写真を当ブログに上げてしまうのは、
配慮に欠けるので遠慮しますが、
未だ残る倒壊家屋やビル、山積みのスクラップのクルマ。
未舗装の道路やレールも残っていない鉄道。
数キロごとに現れる巨大瓦礫の山。


名古屋や東京にいたらわからない現状は
ぜひ皆さんにも知っていただきたいところです。


岩手県に入り、
陸前高田市、大船渡市に入る頃には陽が傾き始め、
宿泊地(岩手県住田町にあるトレーラーハウス)に到着した時には
もうすっかり夜でした。


トレーラーハウスには
大勢のNPOやボランティア団体の人が
会合のために集まっていました。
仮設住宅生活をされている方々のコミュニティ支援について
あらゆる支援の取組を伺って驚きです。
支援にもいろいろあるなあ…と。


3/26(Mon)
翌朝はさらに北上。
釜石市、宮古市を訪れたのですが、
同行の天野竹行氏(災害支援NPO愛知ネットの理事長)が、
現地での仕事があるとのことで
大船渡に引き返します。


午後からは、
地元で暮らす同NPOのスタッフ
佐藤さんに様々な様子を伺いました。
津波被害から復活した企業、撤退した企業の話。
太平洋セメントさんが自社の炉を
瓦礫焼却処理のために継続している話…、
どれも詳細に伝えたいのですが、
まだまだ長くなりそうなので
割愛します。


その夜は、
大船渡の青年経営者たちと
元気に町の復興を語っていただきました。
実は現地(大船渡)で事業を再開されている企業は
人手不足なんだという現状と要因も
よくわかりました。


そして、
人口が四万人を切る大船渡市ですが、
飲食店はにぎやかなんです。
夜遅くまでやっている居酒屋やバーもあります。
大船渡の経営者たちと遅くまで呑み、語り、
彼らのたくましさに感動し、鼓舞され、
そしてまた呑み、語り、
‥‥翌朝2日酔い。


どこにいても同じことをしています。


3/27(Tue)
津波被害のど真ん中にあった
ビジネスホテルで宿泊したのですが、
再開以降、復興支援の人の予約でずっと満室とのこと。
被災地の風景に囲まれたホテルで泊まる経験は
複雑な気持ちになります。


この日は午前中、
被災地復興イベントの開催された観光地を訪問。
午後からは天野氏もNPOの皆さんも
現地での仕事があり、
住田町のトレーラーハウスでワシも雑務をこなします。


そして、そのまま住田Nights。
住田町役場、観光協会、農家、林業、地元企業の
若者たちが食材をもって
トレーラーハウスに集まってきてきました。
町の活性化について語る会議です。
山間部にあるその町は、津波被害はなく、
仮設住宅支援をする側です。


しかし問題は過疎化。


それぞれの業種の方々が
真剣に考えている。
ワシは本業で経験した就農についての話、
若手インターンシップ活用する方法などを語りました。
みんなが語り終えたのは深夜2時を回っていました。
農家の人って、朝、早いんですよね。
もしかして徹夜?


3/28(Wed)
真冬の寒さの残る小雪混じりの雨の朝、
仮設住宅を訪問しました。
生活者のたいへんさが建物を見ているだけで伝わってきます。


その後、復興する水産会社、
株式会社鎌田水産の鎌田仁社長に
人材問題や復興政策、事業構想を伺いました。
ものすごく前向き。
鎌田水産の採用は絶対に支援したい!!!と燃えた!!!。
話しすぎて、予定時間をオーバー。


そして最後の訪問先は
気仙(大船渡・陸前高田・住田)の新聞社、
東海新報社さん。
3.11。その日の出来事を聞く。


地震、津波、停電の中で
自社設備の電源でなんとか印刷機が動かせることを確認。
ところが、印刷オペレータさんが被災されていて
機械を操作できなくなってしまったとのこと。
そんな中でスタッフは、
自前のコピー機で2000部の号外を刷って
翌日に避難所に手配り。
それ以降も
あちこちの避難所を訪れ、安否確認を手書きで写し、
なんとか新聞に上げ続けたと言います。
これぞメディアの真骨頂。


ほぼすべての予定を終了し、
天野氏とともにふたたび仙台へ戻ってきたのは
夜の20時すぎでした。
めしを食って倒れるようにホテルで眠りました。
岩手弁を話す自分の夢を見ました。


3/29(Thu)
翌朝5時に起きて空港へ出発準備。
8時発の飛行機の窓から、
津波でさらわれた更地の仙台を見て再び考えさせられました。
10時頃には我が名古屋オフィスに到着。
そして日常が戻りました。


この機会を与えてくださった
NPO愛知ネットの天野竹行(竹ちゃん)理事長には
本当に感謝です。


できることがないのに
ぞろぞろ出かけていくのは不届きかと思ったのですが、
現状を見て知ることも考えるキッカケづくりには
大事なことだと思いました。

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2012年4月 1日 03:00に投稿されたエントリーのページです。

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